ケヴィン・ブロックマイヤー『終わりの街の終わり』(2006)

終わりの街の終わり

終わりの街の終わり

『第七階層からの眺め』というタイトルの短編集が、今月刊行されると聞いたので読んでみた。終末SFなのかと思っていたけど、大分毛色が違って驚く。

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そこは一度死んだ人間たちが暮らす、名もなき街。現世(?)に己の存在を覚えている人がいなくなった時、街の住人たちは二度目の死を迎えることになる。
ある日、無限とも思えた街の規模が徐々に小さくなり、住人の数が減少したことに人々は気づく。新たに現れ、そして間もなく消えていく者は、現世で爆発的なウイルス禍が発生し、大量死が日常化していると、語った。現世からすべての人間が消えた時、「終わりの街」もまた終わるのだ。
人々は終わりを、そしてある女性について語り出す。南極基地でただ一人生き残った、ローラ・バードについて。

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「終わりの街」に暮らす人々が、異変にあって日常に暮らす様子を描いたパートと、南極でたった一人、生き残りの策を弄するローラの様子を描いたパートが交互に語られる。「終わりの街」のパートは、短篇集と見て差し支えないだろう。各章で登場する人物たちは、実は全員がローラを中心に繋がっている、というのがミソだ。
「終わりの街」という特殊な設定にあっても、そこに暮らす人々に特別な部分はほとんどない。現代アメリカに暮らすごく普通の人々の、ごく当たり前の生活、そしてその中に煌め「生の一瞬」を切り取っていく作者の眼の鋭さと暖かさ(矛盾形容か)には驚かされる。個人的には街唯一の新聞発行人、ルカ・シムズの話(「遭遇」)が好きだ。人と話す時、つい新聞のヘッドラインのように話さずにはいられない奇癖を持った彼の孤独を描いた物語。街の滅びを予感しながら、それでも、誰も読まない新聞を作らずにはいられないルカ。そんな彼が、街で出くわした盲目の男。二人はまだ消えていない人間たちを探して歩きだす。こんな一節が気にいる。

「ルカはふと、今日がシムズ新聞を出せなかった初めての朝だと思った。たしかに今のところ見つけた唯一の読者は盲目の男であり、だからおそらく読者にはなりえないのだろうが、それでも少しのあいだ彼は、宿題を忘れた子供のような気分になった。前々から自覚していたが、これが彼の性格なのだ。どこか背後から、教師が自分を見ているに違いないと思うことが」(p.56)

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街の滅びと並行的に描かれる、徐々に死へと近づいていくローラ・バード。彼女が、何かに追い立てられるように南極を旅する様子は異様にリアリティに溢れている。一つのミスが死に直結する雪と氷、極低温の大地で彼女が見る悪夢。参考にしたというアプスレイ・チェリー・ガラード『世界最悪の旅』(中央公論新社)が気になる。

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ローラの死が街の滅びと直結する重要時であることが次第に分かってくる終盤は、異様なサスペンスがあってもおかしくはないはずだが、この作中人物と読者意識のズレはなんだろう。危機感のなさ?一度死んだ者の余裕?あるいは。

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最後に一つだけ引用。

「死者たちのコミュニティーも、以前の生者たちのコミュニティーも、いつもそばにあり、外で待っていてくれるのが当たり前だとみなしていた。だから、彼はそれにかまわず、参加するよりも脇から観察したり、耳を傾けたりするほうを選んだ。しかし、彼はノートを下に置き、どこかの酒場にでも行き、数人の飲み仲間を求めるべきだったのだ。だれかと恋に落ちるべきだった。少なくとも、その努力をすべきだった。
「やっておくべきだったことは実に多かったが、やらずにすごしたのが事実であり、そして今となっては手遅れだった。」(p.52)

ダメだ。泣いた。短編集も楽しみ。