クレイグ・ライス『幸運な死体』(1945)

読む本を決める基準がみるみる曖昧になりつつある今日この頃。ツイッターで、誰だったかがライスを読み始めたのを機に、ライスを読むことに決めた。おもろうてやがて悲しきライスは、暇つぶしにはもってこいの作家だ。

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アンナ・マリー・セント・クレアは、途方もなく不幸な女だった。死刑囚監房の中にもう半年も収監され、そして今日、彼女に対する死刑が執行されるのだ。ところが、処刑20分前、夫のビッグ・ジョーを殺した犯人がその死にぎわに自白した。一転、幸運な彼女は無実を証明され、無事牢獄を脱する……はずだった。しかし、彼女は「自分は死刑に処された」ことにして、自らに罪を着せた者たちの前に「幽霊」として現れ、復讐してやると言いだす。弁護士マローンは惚れた弱みで彼女の復讐劇を助けることに。

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とにかく、アンナ・マリー・セント・クレアの魅力につきる作品である。なびくブロンドヘア、白磁のような肌、煙で曇ったような瞳、そしてグレーのドレスが抜群に似合うコケティッシュな彼女は、まさしく往時のハリウッド美人。美人に弱いマローンが一撃でノックアウトされたのも無理はない。ところが、彼女がまた実にスカスカなキャラクターなのである。もちろん「幽霊復讐劇」という360度回ってやっぱり頭のおかしいアイデアを即実行に移す辺り、ライスらしいひねくれたユーモアセンスが発揮されていて楽しい。しかし、その最初の一蹴りを除けば、彼女は常に受動的だ。何くれと世話をするマローンやジェイクが、彼女の周りで勝手に物語を動かしていく。

アンナ・マリーは、「男に見られることで成立する女性像」=「かわいい女(Little Sister でも La belle dameでもかまやしない)」であるように描かれていく。それは、「この女は俺が世話を見てやらないと」と男に思わせる女である。物語の中を勝手に驀進して行くもう一人の女、ヘレンとは対極的に。

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アンナ・マリーと献身的なマローンの姿を見ながら、読者は悲しい結末を予想せずにはいられない。マローンは、作中で抱いた恋が成就しないことに定評がある男である。『こびと殺人事件』の老女優との逢瀬とか、悲しすぎて再読できないほどだ。しかし、小太りでも服装が若干みっともなくとも心は騎士であるマローンは、たとえその恋心に見込みがなかろうとも、金と愛情を惜しみはしないし、結果的に、女が自分のものにならなかろうとも、みっともなく騒いだりはしない。

辿りついた必然の結末、そしてマローンが最後に暴き出す真実は、読者の心を(ひいてはマローン自身の心を)二重に傷つけていく。しかし、それでもマローンは……


「『ぼくもきみを愛しているんだ。さあ、早く行きたまえ』彼は眼を閉じた。
「ほんのしばらくのあいだ、彼は彼女の腕が彼を抱き、彼女の唇が彼の唇に触れるのを感じた。彼が手をさしのべる前に、彼女の姿は消えていた。彼は眼をひらき、階段をひらひらと下りて行く淡いグレイの後ろ姿をちらりと見てとった。階下のドアがひらいてしまる音、タクシーが走り出す音が聞こえた。二度とふたたび、彼女に会うことはないだろう」(p.327)

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恋に破れた夜、きっと読みなおせない一作。