マーティン・ウォーカー『緋色の十字章』(2008)

緋色の十字章 (警察署長ブルーノ) (創元推理文庫)

緋色の十字章 (警察署長ブルーノ) (創元推理文庫)

フランス南西部にあるサンドニは、美しい風景で知られるのんびりとした小村。ところがある日、衝撃的な殺人事件が発生する。警察署長を務めるブノワ・クレージュ(通称ブルーノ)は、村の平和を取り戻すべく生まれて初めての殺人事件捜査に挑んでいく。

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もっとも端的にあらすじを紹介すると以上のようになる。一見、村の警官が寄り道しながらのんびりと捜査して、最後に犯人を指摘するような微温的な警察小説に思える。しかし、実際に読んでみると受ける印象は大きく変わるだろう。
本作で扱われる殺人は、実に陰惨な事件である。元戦争の英雄であるアルジェリア人の老人が、あろうことか鉤十字をその身に刻まれて殺されたのだ。犯人は極右の行動家? ジャンキーの若者? 容疑者は次々に浮かび上がっては消える。謎を解く鍵は、被害者の老人が隠し続けてきた彼の過去にあると確信したブルーノは、友人たちの力を借りながら、彼の人生を逆に辿っていく。しかしそこで明らかにされたのは、あまりにも残酷な秘密だった。

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主人公のブルーノはこんな男だ。

30代後半の元軍人。テニスを得意し、村の子供たちにフットボールを指導するスポーツマン。一人暮らしで料理上手、家の中は片付いているが車の中はごちゃごちゃ。警察署長として村に住んで一年、公正で厳格だが、時には法の逸脱に目をつぶってやる茶目気が、村人たちに愛される理由。元大統領補佐官のキレ者村長からも信頼厚く、あと女にモテる。農家のおばさんたちからは、婿にしたいアラフォー男子No.1と見られている。とにかくいい奴らしいことは開巻50ページも読めば把握できる。嫌みのないイケメンと言える。

この紹介の中で注目に値するのは「公正で厳格だが、時には法の逸脱に目をつぶる」という点だ。以下作中の例を挙げる。

村の市場で売られている食品は、EUの食品衛生に関する法律からすれば違法なものばかり。監視官は執拗にサンドニ村を狙っていて、しばしばベルギーくんだりからやってくる。ブルーノは、周囲の村の警察と連携して監視官の接近を把握し、市場で売るおばさんたちに違法食品を陳列しないように予め知らせている。それどころか、時には法解釈と屁理屈を武器に監視官と一戦交えることすら辞さない。

罪のない違法を敢えて裁かないことで村人の信頼を勝ち得て村の平和を維持しようとするブルーノは、極めて巧みな政治的駆け引きを心得た男なのである(天然な部分もあるが)。その彼が、殺人事件という究極的な犯罪と対決することを余儀なくされるというのが本作の趣旨だ。

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敢えて言ってしまえば、謎解きそのものは他愛ない。老人の過去も、老人を殺した犯人の正体も、ほとんどそれしかない、と割に早い段階から察知できる内容であり(擦れた読み方イクナイ)、その点においては目覚ましい作品とは言えない。
この作品を独特たらしめているものは、すべての謎が解けた後、その後始末の部分にある。
如何に陰惨な事件であっても、如何に悲しい真実であっても、探偵役はすべてを開陳し、犯人を裁き、コミュニティに秩序を取り戻さなければならない。彼が警察官であれば、それはなおさらである。しかし、ブルーノはそのような意味での解決を放棄する。なぜなら、真実を広く明らかにすることは、村の崩壊を意味するからだ。加害者とその家族の受けるダメージは当然のこと、被害者家族もまた衝撃を避けることは出来ない。村には攻撃的なマスコミが溢れ、観光地としてのサンドニ村は決定的に終わる。だからブルーノはすべての秘密を己の胸の裡にしまいこむ。


ブルーノは、近代的な警察官というよりむしろ、中世的な村の守護者で、騎士である。コミュニティの内側に取り込まれ、裁くことを躊躇ったアルバート・キャンピオンやエラリー・クイーンとは、また違った形での「裁かぬ探偵」ブルーノの今後の活躍を、興味深く見守りたい。