ニック・ストーン『ミスター・クラリネット』(2007)

ミスター・クラリネット 上 (RHブックス・プラス)

ミスター・クラリネット 上 (RHブックス・プラス)

ミスター・クラリネット 下 (RHブックス・プラス)

ミスター・クラリネット 下 (RHブックス・プラス)

二年前に誘拐された息子の行方を探して欲しい。生きて連れ帰れば1000万ドル、死んでいたとしても、死体を持ちかえれば500万ドル払う……刑務所帰りの元私立探偵、マックス・ミンガスにとって、それは非常に美味しい仕事のはずだった。しかし、彼の行く先はヴードゥーの呪術と極度の貧困が蔓延する無法国家、ハイチ。しかも、彼の前に捜索に当たった探偵たちは、皆悲惨な目に遭っているという。覚悟を決め、"この世の地獄"に踏み込んだマックスが、その地で目にしたものはいったい何か。

    • -

デビュー作にして、2006年のCWA(イギリス推理作家協会)イアン・フレミング・スティール・ダガー(IFSD)を受賞した作品。IFSDは、最優秀賞であるゴールド・ダガーなどと比べると知名度はいま一つだけど、トム・ロブ・スミスチャイルド44』や、ジョン・ハート『ラスト・チャイルド』など、日本でも評価が高い作品が受賞している。「〜賞受賞作」という宣伝帯(「〜絶賛帯」よりはましとしても)には何度も何度も何度も騙されている私としても、何となく期待を膨らませる賞である。


主人公の元私立探偵、マックス・ミンガスは、行方不明になった子どもの捜索のプロフェッショナル(誘拐など含む)。刑務所に入っていたのは、以前関わった誘拐事件で、犯人の未成年三人を射殺してしまったため。かっとなりやすい暴力的な部分はあるが、亡き妻との思い出を断ち切れず、女性に惹かれることに罪悪感を覚える複雑なパーソナリティーからも、単純バカでないことはすぐ分かる。その主人公が、ハイチを舞台に捜査を進めていく訳だ。
ハイチが舞台、というと何となくイロモノっぽい雰囲気を漂わせる(セオドア・ロスコーの大ケッ作『死の相続』を思い出してしまう)が、どっこい極めてオーソドックスな私立探偵小説である。マックスは一つ一つ証言を積み重ね、証拠を繋ぎ、推理を組み上げていく。"Ask a Right Question."、すなわち、「正しい質問を正しい人間にぶつけ、正しい答えを引き出すこと」こそ、PI小説の基本中の基本。たとえ舞台がハイチであったとしても、マックスがこのレールから外れることはない。

しかし、その捜査の過程で、マックスは(そして読者は)ハイチが抱える現実を、否応なく見せつけられることになる。貧富の差があまりに激しすぎる世界の最貧国ハイチ、呪術や占いなどの迷信が生活の奥深くまで支配する「文明化の遅れた国」ハイチ、アメリカ合衆国など周辺の強国に良いように弄ばれる弱者ハイチ。作者は、しかしその実情を、変なバイアスがかかっていない、ニュートラルな視線を通して提供する。この視点は、ハイチで生まれ、現在もしばしば現地を訪れるという作者ならでは。

    • -

この作品を傑作たらしめる要素は、アメリカ人の主人公が地獄廻りをして「ハイチの絶望」と正面から直面することが、物語の根幹と緊密に結びついているという点にある。ハイチの現実を知ることで、主人公の(同時に読者の)持つ正義観、あるいは幸福観は、大きく揺るがされることになる。己の正義を貫き通し、事件を解決し、カタルシスを得ることが、果たして正しいと言い切れるのか。マックスは迷い、酒に溺れて行く。
その迷妄に対置させる形で、作者は、ハイチを裏から仕切る麻薬王である謎の男、ヴィンセント・ポールを配している。己の正しさを信じ、力を行使する「悪」ヴィンセントが、「迷いの物語」とどのように絡んでいくかは、非常に面白い。最終的に明らかになる真実は、陳腐さにうんざりさせられるありふれた(しかし、被害者にしてみれば最悪の)悪夢だが、そこからもうひとひねりして見せる辺り、なかなか侮れない。


ミステリ年度の初めから早速良作が飛び出してきたのは嬉しい限り。この時期の作品は、どうにも忘れられがちだが、私立探偵小説ファンのみならず、広く読まれてほしい作品だ。