パトリシア・ハイスミス『愛しすぎた男』(1960)

愛しすぎた男 (扶桑社ミステリー)

愛しすぎた男 (扶桑社ミステリー)

ニューヨーク郊外の紡績工場に勤める技術者デイヴィッドにはささやかな夢があった。「愛する人アナベルと結婚したい」という夢。しかし、あまりにも熱烈な彼の想いは、現実を離れ、一人歩きを始めていた。彼は週末ごとに下宿を出て、誰もしらない一軒家で過ごしながら、愛する人アナベルとの結婚を夢見ていたのだが…。仮想世界での「恋愛」が破綻したとき、デイヴィッドの破滅がはじまった! いま話題の「ストーカー」(追跡者)の世界を内側から描いた名手ハイスミスのノンストップ・サスペンス!(裏表紙あらすじより)

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パトリシア・ハイスミスの第六長編です。ハイスミスの長編を読むのはこれが初めてですが、非常にインパクトの強い作品でした。本書のすべては、主人公であるデイヴィッドの性格に尽きるといっても過言ではないでしょう。彼は、酒も煙草もやらない、女も連れ込まない真面目な青年として下宿では通っているのですが、その実自信過剰で頑迷固陋、さらに人を簡単に見下すところがあります。

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デイヴィッドは、その収入(彼は相当の高収入です)のほとんどすべてを偽名で買った一軒家に注ぎ込み、アナベルとの愛の巣を作り上げています。しかし、実は、アナベルはすでに結婚しており、デイヴィッドのことは微塵も思ってなどいません。しかし、デイヴィッドはかつて交わした(と彼が思い込んでいる)結婚の約束をいずれ叶えるため、余念がありません。いえ、ウィリアム・ノイマイスター(偽名)は、すでにアナベルの夫(のつもり)なのです。週末ごとにウィリアムはアナベルと自宅で暮らし(ているつもりになり)、ともに美酒を傾け(ているつもりになり)、愛を交わし(ているつもりになって)ます。

その中で、デイヴィッドはたびたびアナベルに手紙を送り、「君が過ちを犯し、別の男と結婚したことは許そう。さあ、僕のうちに来ておくれ。君のために準備したんだ。」と語り続けます。そのうちに、デイヴィッドは、彼女が夫とともにいる部屋に踏み込むという強硬手段に訴えます。その時は、周囲の住人に袋叩きにされ彼も諦めましたが、アナベルの夫に対する彼の侮辱は甚だしいものでした。

怒りに震えるアナベルの夫は、どこで突き止めたか、ついにウィリアム・ノイマイスターの家にやってきます。体格で勝るデイヴィッドは、拳銃で武装した彼を殴り倒しますが、その時、当たり所が悪かったかアナベルの夫は死んでしまいます。

デイヴィッドは、まったく無関係のウィリアム・ノイマイスターが、いきなり襲いかかってきた男ともみ合っているうちに、事故死させてしまったという設定にし、警察に通報します。しかし、事態はその程度では収まらないほどに面倒なものになってしまっていました。

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ゆがんだ自己愛を、これ以上ないというまでに描ききった傑作です。この作品が恐ろしいのは、このデイヴィッドという男の一面が、私の中にもあるのではないか、ということをまざまざと思わせるからです。そういう意味で、私の脳内の本棚では、この作品は、フランシス・アイルズの『殺意』『レディに捧げる殺人物語』と非常に近い位置に置かれています。

物語が進むにつれて、デイヴィッドの自己愛は自己否定にまで進行してしまうのですが……衝撃の結末は自分の目で確かめてみてください。といっても、何か世界が格別に変わるわけでもなく、拍子抜けかもしれませんがね。