ドナルド・E・ウェストレイク『斧』(1997)

斧 (文春文庫)

斧 (文春文庫)

不景気である。製紙業界も世の常と変らず人員削減が行われ、今年51になる私もまた解雇されてしまった。再就職しなければならない。しかし、口はあまりにも少なく、ライバルはあまりにも多かった。こうなったら、もう最後の手段に訴えるほかない。私の再就職の障害となるものを、実力で排除する。それしかないのだ。

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不運な泥棒のスラップスティックな犯罪を描いた<ジョン・ドートマンダーシリーズ>他、ユーモアあふれるクライムノベルで知られるウェストレイクが紡ぎだしたノワールです。ノワールは、厳密に定義が決まっている訳ではない(本格ミステリが、一義的に定義不可能なのと似ています)ですが、この作品については、私はノワールっぽいなと思ったので、そのような形で説明します。

主人公の男はそれなり以上に優秀なサラリーマンですが、会社合併に伴うリストラの結果、会社を馘首されてしまいます。ウェストレイクは、その結果生じた男の苦悩、家族の歪みや軋轢を、必要以上に重くはせず、巧みに描写していきます。その中で、男は「殺人」という究極の倫理逸脱に向かって、坂を転がり落ちていくわけです。
これまでは「善良な中流階級」であった男は、もちろん殺人などしたことはありません。ナイフやロープで直接殺すなんてまっぴらですし、銃一つ撃つのもおっかなびっくり。そんな男が、己の欲望に苦しみ、被害者やその家族に心の中で謝罪しつつも、社会の悪を指弾する、というトンデモ自己弁護を組み上げていく様は、ひどく歪んだ笑いを誘うでしょう。
ラストまで飽きさせないプロットの妙、主人公やその妻の造形の巧みさなど、非常に良くできた作品だと思います。オススメです。

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ちなみに、個人的にはサスペンスとノワールの違いは、「規を越える」ことをきっかけとして描くか、あるいはそのものを描くかではないかと思います。ノワールというジャンルは、決して常習犯罪者の世界に限らないような気がします。